« ファイナンシャル・プランナーのきっかけ? | トップページへ | 米沢紀行 (その二) »

18 July 2008,Friday

米沢紀行 (その一)

6月初めに米沢に行ってきました。
3月に本ブログで『上杉米沢藩と信濃武士』について書きましたが、実は米沢行きは今回が初めです。

米沢城址にある上杉神社や上杉博物館には、上杉謙信・景勝・鷹山・直江兼続などの遺品(甲冑・軍旗・刀剣・書状など)が数多く展示されており、さすが上杉家の伝統を感じさせられました。
また上杉記念館(旧上杉伯爵邸)では、素晴らしい庭園を眺めながら米沢の郷土料理が楽しめましたし、城跡から少し離れた上杉家廟所には謙信公以下12人の藩主の御廟(おたまや)が並んでおり厳粛な雰囲気を醸し出していました。

これらについては余りにも有名なので改めて私が書くまでも無いと思いますので、今回私が特に興味を持った春日山林泉寺と万年塔そして郊外に残る武家屋敷について少し書いてみたいと思います。

●春日山林泉寺
%E8%AD%AB%E7%8E%B2%EF%BD%B3%E7%89%99%EF%BD%AF%EF%BD%BA-thumb.jpg

林泉寺
歴代藩主の墓は上杉家廟所にありますが、林泉寺には上杉家墓所(藩主の奥方や子女の墓26基と支侯の墓16基)及び重臣たちの墓があります。

この林泉寺に武田信玄にゆかりの方々のお墓があるのを知り、驚きと同時に歴史の巡り合わせを感じました。

武田信玄の四女で、信玄死後武田勝頼が織田信長に対抗するために上杉景勝と同盟を結んだ証として、天正6年(1578年)景勝の正室として嫁いだ菊姫の墓があります。彼女は才色兼備な女性で、甲州御寮人または甲州夫人と呼ばれ家臣たちからも大変敬愛されていたそうです。

上杉家墓所に隣接して武田信清(武田信玄の六男)の墓もあります。
天正10年(1582年)武田勝頼が天目山の戦いで織田信長に敗れ、武田家は滅びましたが、信清がただ一人生き残り、紀州高野山無量光院に匿われた後、景勝に嫁いでいた異母姉の菊姫を頼り越後に入りました。上杉家では信清を高家衆の筆頭として優遇し、3,300石(米沢移封後は1,000石)を与え、彼の子孫は明治維新まで米沢に居住しました。

●武田信清の墓

※信玄は “自分の亡き後、天下に頼るべきは謙信のみ”と勝頼に遺言したとも謂われています。
  信玄 1573年没 (享年53)   謙信 1578年没 (享年49)


来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公である直江兼続のお墓もここにあります。
妻のお船の方の墓と並んでいるのは、ほほえましく見えます。
また夫婦の墓が同じ大きさなのもこの時代には珍しいそうです。事実2人は仲睦まじい夫婦であったとの由。

●直江兼続夫妻の墓

これまで米沢のヒーローと言えば、米沢藩中興の人「上杉鷹山」だったでしょうが、いまはそれに知将「直江兼続」が加わり強力な二枚看板になっています。
当日の林泉寺には、法事が行われていたせいか観光客が一人も居らずゆっくり拝観できましたが、来年はさぞやたくさんの人たちが訪れることでしょう。
                        

万年塔と武家屋敷については、次回書きたいと思います。

カレンダー

2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

株式会社 上燃ライフアシスト トップページへ戻る