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18 March 2008,Tuesday

信濃武士たちの行く末 (その二)

今回は
 『上杉米沢藩と信濃武士たち』の②
   ●上杉鷹山と七家騒動
   ●市河文書と山本勘助  です

 上杉家の家紋

上杉鷹山と七家騒動
米沢藩第9代藩主の上杉鷹山(日向国高鍋藩2万7千石の秋月家から上杉家の養子となる)は、17歳で家督を継ぎ、改革派の竹俣当網(国許奉行)・莅戸善政(小姓頭)らと藩政改革に着手しました。
しかし、上杉家譜代の老臣たちは強くこれに抵抗しました。
1773年、鷹山23才の時、"七家騒動"が起こりました。これは改革に反対する7人の重臣が打ち揃って登城し、直接藩主の鷹山に45ヵ条の訴状を提出し、即座の判断を迫ったものです。
これに対して、鷹山は訴状の内容を慎重に調査し、事実ではないことを確認した上で、以下の処分を行いました。

 須田満主(江戸家老)、芋川延親(侍頭)   切腹 家名断絶
 千坂高敦(奉行職)、色部照長(奉行職)   隠居閉門の上、知行半分召し上げ
 長尾景明(侍頭)、清野祐秀(侍頭)、平林正在(侍頭)   隠居閉門の上、知行300石召し上げ
 
以上7名の内、須田、芋川、清野(せいの)、平林の4名は信濃武士の子孫です。
家名断絶となった須田家と芋川家は、2年後に許され家名が再興されました。

この7家は、越後以来の家臣・重臣であり、鷹山が目指す新しい改革ではなく、謙信公の時代に戻るべきだと主張しました。
また上杉家の血を引かない他家からの養子であった若い藩主に対しての反発と上杉家譜代の重臣としての強いプライドもあったでしょう。
現代風に言えば、改革派と守旧派(抵抗勢力)の激しい確執であったといえます。

しかし、鷹山はこうした激しい抵抗にも負けず、藩政改革を推進し、窮乏を極めていた藩の財政を立て直し、米沢藩の”中興の祖”と言われています。

 上杉鷹山(藩主時代の名は治憲)の像

石高に比して6千人という多くの家臣団を抱えていた米沢藩の財政は極めて厳しく、"いっそ幕府に領地を返上してはどうか"と本気で考えたことさえあったのだそうです。

※上杉鷹山という人物や彼の藩政改革については、若い時に童門冬二の『小説上杉鷹山』を読んで、その理想のリーダー像に大変感動したことを今でも覚えています。また私の最も好きな作家の一人である藤沢周平も『漆の実のみのる国』という彼の遺作となった小説で上杉鷹山を描いています。


市河文書と山本勘助
 昭和44年、北海道でNHK大河ドラマの『天と地と』を見ていた市川良一さんという方が、番組の中で紹介された武田信玄の書状にある花押(サイン)を見て、”家にも同じよう物がある”と釧路図書館長に電話をしました。そしてその中に、それまでは架空の人物ではないか?と思われていた「山本勘助」の名前が書かれており、彼が実在した人物であることが証明されました。その中では、「山本勘助」ではなく、「菅助」と書かれていましたが、この時代はよく当て字を使ったようです。
その書状は、武田信玄が市川さんの先祖である市河氏に宛てた手紙でした。
市河氏は、もともとは古くから現在の長野県栄村の豪族で、上杉景勝の転封に伴い、会津へそして米沢へと移っていきました。更に明治になってから陸軍屯田兵として北海道に移住されたのだそうです。

 「菅助」という記載がある信玄の書状


※この時の『天と地と』では、武田信玄役が高橋幸治、上杉謙信役が石坂浩二でした。私には高橋幸治といえば、同じくNHK大河ドラマ『太閤記』での織田信長役が強く印象に残っており、これまでいろいろな俳優の信長を見てきましたが、高橋信長が一番私の信長イメージに近いものになっています。


★次回は、来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公であり、上杉家の名将といわれた直江兼続と信濃について書く予定です。

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