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09 November 2007,Friday

長州萩紀行 その二

萩の町を見て廻るには、西の萩城址から東の松蔭神社まで約4キロ程の距離なので、自転車が一番便利のようです。
朝9時前にレンタサイクルで旅館「北門屋敷」を出発し、まずは「萩博物館」で歴史的知識を頭に入れた後、夕方まで1日掛けて方々巡りましたが、それでも観たいところを全部は回り切れませんでした。
“現在の人口は約7万8千人、合併前の萩地域だけでは4万人台”と聞き意外でした。こじんまりした町になっていますが、見るべき史跡や学ぶことが盛りだくさんの町です。


毛利屋敷跡に建てられた旅館「北門屋敷」
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まだ新しく綺麗で展示内容も豊富な「萩博物館」
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②長州藩家臣団の構成

まずは『士席班』があります。
 『士席班』には上士・中士・下士の三段階あり、更に最高位の「一門」以下11階級に分かれていました。
『士席班』の下に『準士席班』があり、更にその下が『卒席班』となります。
 『卒席班』は、「足軽」・「中間」・「小者」に分かれており、家臣団全体としては「一門」から「小者」までの15の階級ありました。
 【防長回天史】によれば、家臣団の規模は5,675人(内訳 士席班2,599人、準士席班118人、卒席席2,958人)だったそうです

長州藩出身で明治時代に内閣総理大臣にまでなった伊藤博文や山県有朋が下級武士の出身だったことは知っていましたが、二人とも「足軽」よりも下の「中間」という身分だったことを知り、改めて明治維新というものを考えさせられました。
  
  ※伊藤博文はもともとは農家に生まれたが、父が「中間」の伊藤家の養子になった

若き日の伊藤博文(俊輔)
伊藤博文
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一方、同じ長州藩の高杉晋作(200石取り)や木戸孝允(150石取り)は、れっきとした中級武家の出身で、屋敷もお城に比較的近い城下内にありました。
  ※木戸孝允(桂小五郎)は、藩医和田家に生まれ、その後桂家の養子となりました

因みに、吉田松陰の実家である杉家は26石、養子先の吉田家(山鹿流兵学師範)は57石でした。
ふうふう言いながら坂道を自転車を押して吉田松陰の生誕地まで行きましたが、萩の城下町を一望できる山の中腹にありました。お城からは一里以上も離れたところです。

吉田松陰生誕地から望む萩城下
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右前方に見える指月山の麓に萩城(別名指月城)がある

余談ですが、
【江戸300年「普通の武士」はこう生きた】(ベスト新書)に、幕末明治に活躍した他藩出身者の石高が載っていましたので紹介します。
  板垣退助(土佐藩)  220石
  大隈重信(佐賀藩)  200石
  乃木希典(長府藩)   80石
  福沢諭吉(中津藩)  13石2人扶持

これも余談になりますが、藤沢周平の原作を映画化した『武士の一分』では、30石取りの下級武士である三村新之丞(木村拓哉)に仕えていた徳平(笹野高史がいい味を出していた)が「中間」でした。


萩にはまだじっくりと見たいところも残っています。また旅館スタッフの皆さんの心のこもったもてなし、仕事の範囲と時間を超えて親切に案内してくれたタクシーの運転手さん、熱心に説明してくれたボランティアガイドさん、皆さんのおかげで大変満足度の高い旅行になりました。是非もう一度訪れたい萩です。

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